g_03.gif エリーシア戦記

...Record Of Ariesia War...


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第60章 朝雲暮雨


【神聖紀1232年12月、ウェーデリア公国ブレナン州】
 ウェーデリア公国は、エリース湖北岸にあり、ウェーデル山脈の麓、豊富な湧水と手付かずの森林に恵まれている。
 初めはセレーネ半島から、後にはアルティガルドから入植者が入ってきた。
 しかし、開拓開始から数年は、イナゴの大群や冷害に襲われて、なかなか安定的な生産量を得られず、折角切り開いた農地を手放さざるを得ない者が続出して、人口の半数以上が、小作に没落した。さらに、力を蓄えた地主達が武装して騎士階級を形成していく。
 この騎士たちは、自分達が創った、と言う思いから土地に対する執着が強く、グリューネルの中央政府に対しても介入を嫌う傾向があった。そのために、国内は常に不安定な状況が続いている。
 現在、エドワード2世の治世にあるが、反公王派のリーダーであるブレナン伯爵は、地主層(騎士階級)から参与を選び、合議制会議を召集した。そして、政局に対して、正否を独自に判断し始めていた。
 事実上の政府であり、国家の最高意思決定機関が二つになったことを意味する。


 ――ブレナンシティ。
 岬の丘の上に堅牢な城壁に囲まれた城砦都市が悠然と聳え、その崖下には絢爛とした港町が広がっている。ブレナンシティは、異なる二つの町並みが見事に調和した、ウェーデリア第二の都市である。
 この日、定例参与会議が開かれていた。
 岩を削って土台とし、その上に、造船の技術を応用して、木造の建物を建てている。まるで船をひっくり返したような構造で、竜骨を天井の梁として、そのから直角に肋材を組んで屋根や壁としている。
 大きくて粗雑なテーブルには、海や山の料理が無造作に並べられて、囲む男たちが荒々しく食していた。
「ジョンの小便たれ(エドワード2世の嫡男)の結婚式に、ディーンの小倅が来るそうだ」
 骨付きの肉を食いちぎり、ひとりの騎士が噛み付くように言った。
「ああ、笑わせてくれる」
 左の髭が短く右が長い大男が、だらだらと酒を零しながら言う。『片髭のロジャー』と渾名される、ロジャー・ライトフィールド卿である。
「下級騎士の若造ごときに何ができる。ここは惰弱な都とは違う。見よ。この屈強な戦士たちの姿を」
「おおよ!」
 ロジャーが高くジョッキを掲げると、男たちが一斉に気勢を上げた。
「こんな筋肉の男が、都に居ると思うか?」
 調子に乗ってテーブルの上に飛び乗ると、近くにいた熊のような筋肉隆々の男を指差した。
「居るわけがない」
 忽ち、煽るような笑いが巻き起こる。
 名指しされた熊のような男は、テーブルの上に登ると、酒樽を肩に担いで、何度も首の周りを回し始めた。
「見よ。このパワー!」
 げらげらと男たちは笑い、次々に男たちはテーブルの上に登り、酒樽回しを競い合う。
「時と場所も考えず、バカ騒ぎしおって……」
 上座の一角から小さな声が零れる。
 部屋中央を占める武断な男たちと違って、上座の伯爵の周りに集まっている連中は静かに顔を寄せ集めている。知的な雰囲気をもつ者ばかりで、揃って、まるで空気に棘ができているかのように、苦痛の表情をしていた。
「では、ディーンから手紙が来たと言うのは、本当なのですね?」
「ああ」
 伯爵は短く唸ると、苦々しそうに拳を握った。
 180センチを越える長身に、広い肩幅、厚い胸板と鍛え上げた肉体を持ち、日焼けした爽やかな顔立ちに、短く刈りそろえた髪と典型的な湖の男という外見である。知性も高く、人望もあり、常に場の中心に立つことを期待される男だった。
 透かさず、腹心のアイザック卿が概要を説明し始めた。
「12月1日の未明、艦隊でブレナン湾に到着する。港を空けておくように、と書いてあった」
「一戦交えると言う事か?」
 ひとりが大きな声を出しそうになって、慌てて口を押さえて顰めた。そして、賑やかに踊り騒いでいる武断派の連中を一瞥して舌打ちした。これを知れば、彼らは、「小癪な!」とまた馬鹿騒ぎするだろう。
「否、ここに船を停泊するつもりらしい」
 アイザック卿が冷静に答える。
「船……?」
 男爵の称号を持つ初老の男が、怪訝そうに問い返す。
「一隻だけか?」
「それは分からぬ」
 アイザック卿の答えに、皆が唸る。
「奴の艦隊を見た事がある――」
 ひとりが慎重に喋りだす。
「超ド級の大型戦艦8隻、高速巡洋艦8隻、そして駆逐艦多数。見事な陣容だった……」
 ぼそぼそとした声が途切れると、もう誰も言葉を発しない。
「今は断じて、ディーンと戦うべきではない」
 アイザックの声が、鉛のような沈黙を切る。彼は、オーギュストとの提携を主張していたために、参与会議では異端扱いされていた。
「……ああ」
「……しかない」
 躊躇いがちにだが、それぞれに頷き合い始める。その時、議論をリードしてきたアイザック卿を嘲笑うかのように、いきなり破局が舞い込んできた。
「おい。これを見ろ」
 遅刻して現われた騎士が、グリューネルの公報を持ってきた。そこに、オーギュストがブレナン湾に艦隊を停泊させることが発表されていた。
「来るなら来い!」
 それに、ロジャーが絶叫した。
「サリスの艦隊など、俺の船でイチコロだ。何せ20人漕ぎだ。イルカよりも早く走るぞ」
「おお!」
 感嘆の声が部屋中に満ちた。自慢の新造船である。噂はウェーデリア中を駆けていた。
「……もはや万事休す」
 アイザック卿は絶望に唇を噛んだ。


 ――ブレナン湾沖。
 セリアを出航した第一艦隊は、順調に航海して、ウェーデリアのブレナン湾に侵入していた。
 5本のマストを持つ巨大戦艦の群れが、一列に並んで薄暗い闇の中を進んでいく。東の空の端に、青い一筋の輪郭が現われた。それは濡れた紙に落ちたインクのように、空全体に滲んで広がっていく。
 旗艦『スキーズブラズニル』の明るくなり始めた甲板の上を二つの影が動いていた。
「うぬ?」
 歩いていたオーギュストが、ふと足を止めた。
「何か踏んだか?」
「ああ、たぶんゴミだろ」
 隣を歩くマックスが答えた。
 オーギュストは「俺が若い頃は……」と言いかけると、マックスが真顔で問う。
「どうしてここを選んだ?」
「グリューネルに艦隊を入れる訳にはいかんだろう。まるで俺が恫喝しているようだ」
 オーギュストは小さく笑いながら、視線を遠い前方へ向けた。
「見えてきたな」
「ああ」
「小島に近付き過ぎだ。岩礁があるぞ。進路を変えろ」
 マックスが声を張る。
 湾内に小さな島がある。ここはかつて研修用帆船アルバトロス号の基地があった。たくさんの少年たちが、ここで操船の基礎を学んだ。
「見ろ……」
 霧の切れ間に、朽ち果てた桟橋が見える。2人は思わず息を飲んだ。そして、競うように一歩前に踏み出して、食い入るように見つめる。
――あれは……?
 さっと清新な朝陽が世界を鮮やかに浮かび上がらせて、オーギュストの瞳に、少年の日の記憶を甦らせていく。
 使い込んでいるがよく手入れされている桟橋を、少年たちが、はつらつと駆けていく。どの顔も希望に満ち、自らの正義を固く信じて、そして、ここで、かけがえのない友に出会えたことを素直に喜びんでいる。その少年達の背に、過酷な運命が静かに近付いていることに、誰も気付いていない。
 オーギュストは、呆然と立ちすくんだまま、言葉を失っていた。ちょっとした風でも吹き飛んでしまいそうなぐらい軽く不安定な存在となっていた。辛うじて体を支えて、ゆっくりと呼吸をしている、ただそれだけだった。しばらくの間、オーギュストは自分が誰なのかさえ分からなくなっていた。風に舞い上がった一粒の水滴のようにさえ感じていた。
「もう行こうや――」
 ふとマックスが言う。
「過去を振り返っても仕方がない。ああすれば良かったなんて思うだけ無駄だ。時間って奴は、過ぎてしまえば、石のように固まってしまうのもさ。何一つ変えることは出来ない……」
「そうだな。様々な生き方があり、様々な死に方がある。でも、最後には、この湖だけが残る……」
 オーギュストは、朝日に輝く湖面を眩しそうに見遣った。


 ――ブレナン浜。
 冬の浜に、ウェーデリア騎士たちは、オーギュストを迎え撃とうと陣取っていたが、あまりの寒さに、配置を無視して、全員が焚き火に集っていた。さらに、人が集まり、話が弾めば、酒が欲しくなる。誰言うともなく、戦勝用の酒樽を引っ張り出して、飲み交わし始めた。
「なんじゃー? ありゃあ?」
 律儀に霧の奥を見張っていた騎士が、突然大きな声を上げた。
「どうした?」
「おあ?」
「なんじゃあ?」
 一斉に酒を飲む手を休めて、湖面へ顔を向ける。そして、まるで雛が餌をねだるように、口をぱっくりと広げて一列に並び、驚愕の声を吹き鳴らした。
 濃い霧の向こうから、不気味な音が轟いてくる。そして、灰色のスクリーンに、巨大な影が浮かび上がってきた。
「ドラゴンじゃぁあ!!」
 ひとりが叫ぶと、多くの騎士たちは持っていた槍を放り出し、その場に腰から落ちてしまう。
「慌てるな。ありゃ船だァ!!」
 灰色の霧を突き抜けて、次第に巨大な戦艦が姿を現した。そして、沖に待機していた舟を、切り裂いた波で蹴散らしてしまった。
「潰された。我らの舟がまるで木の葉のように……」
 ロジャーは、特徴的な髭まで真っ蒼にしていた。もう逃げる騎士を止める者はいない。騎士たちは這うようにして、松林の中に逃げ込んだ。そして、松の影に張り付いて、震え上がった。


【神聖紀1232年12月初旬、グリューネル】
 上陸を果たしたオーギュストは、陸路、グリューネルへ向かう。
 大岩の上に松が一本立つ峠を越えると、眼下にグリューネル湾が広がる。碧を湛える湾は、さざなみ一つなく、小さな帆船が忙しく出入りしていた。
「ああ、美しい……」
 馬車から顔を出して、オードリーが囁く。
「ここは時間が止まっているようだな……」
 
 街道は、緩やかに曲がって、狭い石畳の坂道を下り始める。正面に雄大なウェーデル山脈が迫り、ウェーデリアらしい絶景が広がっている。
 その懐に、氷河が創り出した渓谷が見える。渓谷の奥には、未知の動植物や未踏の遺跡が手付かずで残っている。うずうずと好奇心を刺激されるのは、人間の性であろう。実際に、多くの人々が、魅入られたようにレイン川が遡って行った。
 そのレイン川の河口に、緑豊かな自然と人間の活気が見事に調和した街、グリューネルがある。
 この街の主ウェーデリア公王エドワード2世は、嫡男ノースレイン子爵ジャン1世の結婚式に、オーギュストを招いて、盛大に催した。
 歴代の公王は、アルティガルド貴族から正妻を迎えてきたが、その影響力減退によって、ジョンは自由に正妻を選べる立場となった。そして、彼は、公王一門ロイド伯爵家の令嬢を蹴って、迷わず『緑風魔弓隊』から選んだ。
 教会の中で、若い男女が誓いを結ぶ。
「あのドレス、綺麗だわ」
 オードリーが目を輝かせて言う。彼女は、ベルベットの黒いスーツを着ている。田舎の人々の中では、際立ってエレガントだ。その隣には、同じ黒いベルベットで、金モールの縁飾りのついた長袍をきたオーギュストがいた。
「……」
 ジョンの横で白いドレス姿で優しく微笑むデイジーを見て、オーギュストは以前の訪問の際に会ったことを思い出していた。
……
………
 オードリーを側室にしたオーギュストをジョンは歓待した。
「よくお越し下さいました」
「やあ、兄上」
 オーギュストが屈託なく応えると、2人は形式的な挨拶を省略して、仲良くハグした。それから、意気投合した2人は、鷹狩りに出かけた。
 川辺に、鴨がいた。オーギュストはただの一矢でこれを射落とした。その妙技にジョンは賛辞を送った。そして、自分では適わないが、同じぐらいの技を持つ者がいる、と護衛隊長を務めていたデイジーを紹介した。
 名指しされて、デイジーが前へ出た。
「ご免」
 颯爽と告げると、美しいフォームで矢を引き分ける。そして、放たれた矢は、威力こそ劣るが、ふわりと舞って、吸い込まれるように鴨に命中する。
「見事」
 ジョンは自分のことのように喜んだ。
………
……
 あの時の緑色の軍服姿が、眩しげに思い出させた。
 デイジー・シアーズは、現総長の娘で、彼女自身も第一小隊の隊長を務めている。風を読む鋭い感性を持ち、弓術に長けていた。
 この父娘は、内陸辺境のリコ湖に流れ込む三つの川の一つ、イヴィング川の流域の出身である。
 この地域の人々は、俗に、『エルフの末裔』と呼ばれ、かつてエルフとの混血が行われたらしく、体格は華奢で、容姿は美しい者が多い。
 デイジーも長身でほっそりとしている。手脚が棒のように長く、細腰も細い。首もすらりと伸びていた。そして、小振りで固そうな胸の膨らみは、芸術品のように整っていた。 美貌もまさにエルフの名残を感じさせる美しさで、鼻筋がすっと通り、口が薄くきりっと引き締まり、顎が形よく尖っていた。さらに、大きく澄んだ瞳は勝気そうで、エルフのプライドの高さを連想させた。
「……」
 オーギュストは、ゆっくりと喉を鳴らしながらジョッキのビールを飲み干す。

 その翌朝、オーギュストは、湖の見えるテラスで、公王一家と朝食をとる。
「俺も鬼じゃないから」
 などと嘯きながら、『イルガチェフの誓紙』にペンを走らせていく。
「ファーストキスは兄上に譲ろう」
 唇の項目に、未使用と書き込んだ。嘘を書けば、忽ち、イルガチェフの呪いが発動する。
「ご配慮、ありがとうございます」
 ジョンは、ナイフとフォークを置いて、恭しく頭を下げる。
 オーギュストは昨夜、ウェーデリアの上流階級に残る初夜権を発動させて、ジョンの新妻デイジーを抱いた。
 ウェーデリアでは、エルフの処女性は魔物を呼び寄せる、とされ、忌み嫌われている。特に純潔の血は不吉で、流産を繰り返すと信じられていた。故に、力のある者に、それを取り除いてもらうのが古からの風習となっていた。
「イラマチオはすぐに覚えたが、ディープスロートはまだ早かった。かなり辛そうだった。だが、さすがに『緑風魔弓隊』の女傑だ。弱音一つはかなかったぞ」
「……」
 嬉々として喋るオーギュストに対して、次第にジョンの顔から感情が消え、口を固く噤んでいく。
「毛は薄くて大陰唇には全くなかった。クリトリスは完全に包皮に隠れていた。剥いてみたが、ちっちゃくと可愛かった。聞いてみたら、オナニーは週に一回ぐらいだそうだ。これほど綺麗なマンコが目の前だと説得力があった。試しにやらしたら、指の動きが今一だった。まぁ後で、潮を吹かせてやったから、少しは参考になっただろう」
 オーギュストは、あくまでも真剣な口調で語り続ける。その声に、一切の翳はなく、善意の具現者のように明るい。
「締りもなかなかよかった。男勝りだから強がってマグロに徹しようとしていたようだが、目尻の涙を指ですくうしぐさは可愛かった。三発目からは、彼女も感じるようにもなった。大声で喘ぎながら腰を振り始めた。才能があるようだ。アナルの方はまだまだだな。痛がるし、泣くし……。あ、肝心な事忘れていた。ちゃんと血は出たぞ。処女に間違いなかった」
 と言って、証拠の映像を所定の位置に貼り付けた。
「これでよし。これで晴れて夫婦だ」
 最後に、流麗なサインを施すと、ジョンへ誓紙を差し出す。
「ありがとうございます。これで我が一族の繁栄も疑いありません」
 ジョンは眼を伏せて、恭しく書類を受け取る。しかし、オーギュストはすぐに手を離さなかった。
「兄上が羨ましい」
「え?」
 思わず眉が跳ねる。
「身体が柔らかいから、どんな体位も楽しめる、対面座位や騎乗位で腰を振らせるのも良いが、屈曲位で奥を貫いてやるのも趣がある」
「ご指南ありがとうございます」
 再び深く頭を下げた。
「うん」
 オーギュストは満足げに頷いた。
 朝食が終わると、謁見の間に移動する。ウェーデリア騎士たちが、列を成して挨拶に訪れていた。
 その中に、片髭のロジャーがいた。薄い頭だけでなく、髭にまで油を塗り、テカテカに光っている。その風変わりな顔に、媚びるような笑みを浮かべて、あらん限りの美辞麗句を並べた。そして、妻子をセリアへ送ることを率先して約束した。
「いや、俺も鬼じゃないから」
 オーギュストは笑顔で手を振る。
「お前が裏切っても妻子を殺さん。何時でも好きな時に叛いて構わんぞ」
「ご、ご冗談を……」
 ロジャーは強張った笑いを作った。
「冗談か、ふふ」
 無機質に笑うと、オーギュストはパンをナイフで刺し、ロジャーの眼前に「喰え」とばかりに突き出す。
「……!」
 ロジャーは殴られたように、仰け反った。
 これほどの屈辱があろうか……、と顔に憤りの感情が滲み出ている。しかし、立ち竦んだ体を、ナイフの鈍い光を貫いて、オーギュストの燃えるような眼光が射抜いてくる。
 音を鳴らして、生唾を飲み込む。長い沈黙が生じた。ロジャーには、これと同じ沈黙に覚えがあった。記憶を少し辿ると、祖父の臨終の場に思い至る。避けがたい死がそこにあった。
――逆らった瞬間、殺す気だ……こいつ…!
 忽ち、憤りが戦慄に変わった。束の間に、幾十、幾百回と、八つ裂きにされる映像が、脳裏に焼きつく。沸騰しかけた血の滾りが、一気に氷点下まで下がり切る。
 まさに身も心も蒼褪めた。髭が、全身の動揺を現すように微震している。
 一度、促すようにパンが上下した。
「はい!」
 ロジャーは飛び付いて咥えた。口の中が乾いて、思うように噛む事ができない。そんな中、二度と赤い色を見ないと心に誓う。
「あははは」
 オーギュストは、乾いた声で笑った。
「面白い男だ」
 そして、ロジャーに『犬威将軍』の称号を与えた。
 ロジャーの後にも、ぞくぞくとウェーデリア騎士が謁見を申し込んでくる。結局、この日、ブレナン伯爵の参与会議に参加している者のうち、約6割が雑号将軍位を貰った。

 城内の狭い坂道をロジャーがとぼとぼと生気なく下りていく。その後ろは、謁見前と比べて十は老けていた。
「お前の言うとおり、簡単に終わったな……」
 ジョンとオードリーの兄妹が、塔の窓から、出入りする人の流れを眺めながら語り合う。長く続いた反公王派との争いにも、ようやく決着の目処が立とうとしている、と2人は感じている。
「ええ。今や上帝陛下の威光に逆らえる者などいません」
 オードリーの声には、誇らしげな響きがある。
 オードリーは、眼の覚めるような鮮やかなロイヤルブルーのロングプルオーバーに、胸元を黒いキャミソールで、足元をレギンスで引き締めている。冒険的に流行を取り入れた服を、さりげなく着こなしていた。
「これも、奴のおかげと言う事か……」
 都会風に変わった妹を横目で一瞥すると、ジョンは小さく舌打ちした。
「まるでウェーデリアを乗っ取りかねん勢いだな」
 冗談っぽく呟いて、くくく、と忍び笑いをする。
「すでにこの世は陛下のものです。今更ウェーデリアなどに何の拘りがありましょう」
 オードリーは慌てて兄を諌める。突然のことに、瞳には不安と恐怖が詰まっていた。
「分かっている……だが――」
 ジョンは、嫌悪感を顔中に滲ませて、苦々しく声を歪める。
「だが、奴には悪意を感じる。本来、初夜権は形式的なこと。それを奴は……」
 言葉に紡ぎ出すと、それまで抑えていた感情が急激に昂ぶっていく。思わず拳を握って、腰の下で強く壁を殴っていた。
「エルフの血などと古い慣わしに拘るからです。中原ではそんな風習などありません」
「奴はウェーデリア人だ!」
 思わず大きな声を出し、慌てて口を塞いだ。しかし、感情の迸りは止まらず、目を血走らせて語り続ける。
「少しばかり都で手柄を上げたからと言って、所詮は多少運が良かっただけの成り上がり者ではないか!」
「ならば、お兄様が、真っ先にサリス姉妹の下へ駆け参じればよかったのです。それをしなかった者が、後から運が良かったなどと口走るのは卑怯です」
「……お前ッ!!」
 思わぬ妹の激しい非難に、ジョンは目を剥いて睨んだ。
「上帝陛下は恐ろしい人ですよ、お兄様」
 オードリーは、兄をいなすように口調を冷静なものに変える。
「……」
「どうして不機嫌なのかは分かりませんが、今は逆らってはいけません」
「分かった。分かった」
 無意識に言葉を重ねる。話を打ち切りたい気持ちの現われであろう。逃げるように歩き始める。と偶然、目の端に、交通整理をする親衛隊を捕らえた。
「うむ?」
 立ち止まって、じっくり舐めるように見詰める。
「ホント、男ってどうしようもないわね」
 オードリーは幾分緊張を和らげた。
「あれが親衛隊の女リーダーのアン、もう一人が一番弟子のランよ」
「ほお、……強くて美しいか」
 ジョンが目を細める。
「親衛隊員は固い子ばかり」
 やれやれと首を振る。
「オードリー……、俺が靴下をはかない訳が分かるか?」
 自信たっぷりに囁いた。

「もっとちゃんと棒を水平に構えなさい。それじゃ、止まれ、なのか、行け、なのか分からないでしょ」
 アンが強い口調で、新人達に注意していた。
 本来なら新人教育は、ランの仕事だったが、それを無視して、直接指導している。
「相変わらず、暑苦しい奴ですね」
 扇で扇ぎながら、香子が言う。
「シメますか?」
「まあ待て」
 ランが答える。2人は、休憩用のテントの中で、ウェーデルの名水を飲んでいた。
「一度天国を見せてから、地獄に落としてやろう」
「はい」
「それより……」
 ランの目は、香子の扇に釘付けになっている。扇子には、蝶の舞う下地に、「玲瓏」と達筆で書かれている。
「あ、これですか?」
 ランの視線に気付いて、香子が笑う。
「大師匠が作ってくれたんです。伝説のフェアリーバタフライが手に入ったからって、作ってくれたんです」
 香子は嬉しそうにはにかむ。
「ふーん、よかったわね」
 ランは表情を殺して、ぐっと水を飲み干した。

 一週間が瞬く間に経つ。ジョンとデイジーは、領地のノースレイン領に戻った。それにオーギュストも同行して、連日、森へ狩りに出かけた。
「兄上、あれを。ああ、惜しい。では、こちらを」
 木々の合間に現われる鹿を指差して、オーギュストは右へ左へジョンの愛馬を引っ張りまわす。
「早く撃て、ほら、次が出てきた」
 あまりに速すぎる射撃指示のせいで、ジョンは照準を合わせるどころか、十分に引き分ける事もできない。すっかり射形を崩してしまい、矢は標的の周りに散っていく。そして、極まった焦りの中、不安定な体勢のままで射撃して、その反動で、落馬してしまう。
 狩りは中止となり、全員館に戻った。
 オーギュストは、台所でひとりビールを飲む。窓の外には音もなく、凍て付いた雨が降っていた。そこへランがやってくる。
「親衛隊の湿布を分けて欲しいそうです。いいですか?」
「好きにしろ」
 一旦オーギュストは無造作に答えたが、ランの胸にトラメ石のペンダントを目敏く見つけると、呼び止めた。
「それ、もしかして気に入っているのか?」
「ええ」
 ランは少し照れたように少し俯き頭を掻いた。
「子爵が、(剣技が)素晴らしい、とくれたんです。まあ、見る人は見ていると言う事でしょうね」
「ほお、安く見られたものだな」
「へ?」
「半人前のくせに色気づきやがって」
 ジョッキを強く置く。
 ランは「アンタには言われたくない」とあからさまに不服な表情をした。しかし、急に何か思いついたらしく、オーギュストの反応を横目で確かめながら、探るように言う。
「はぁはーん、もしかして嫉妬ですか?」
「なに?」
「弟子を取られると思ったんでしょ?」
 さすがのオーギュストも、これには意表をつかれた。
「だったら、師匠が香子の扇よりも、役立ちそうな物をくれるなら外してもいいですよ」
 指で摘んで、ちらちらと揺らす。
「陛下」
 そこへアンがやってくる。
「全部揃ったか?」
「いえ、一つ足りません」
 アンは答えると、傍らのランを一瞥する。日頃決して友好的に眼を合わせることがない2人である。いきなり睨まれて、ランは喧嘩を売られたと鋭く睨み返す。アンは、不意に視線を下へ外すとランの首にかかるペンダントを毟り取る。「何をする」と憮然となるランを放置して、持っていた箱の中へ落とした。
「今、全部揃いました」
「そうかご苦労」
 オーギュストに一礼して、アンは下がっていく。その時、ランを冷笑して、小さく鼻を鳴らした。
「何ですか、あれは?」
 ランは納得できない表情を向ける。
「子爵は片っ端から贈っていた。俺の周りから一人でも多く口説いて、寝取り気分を楽しみたかったのだろう――」
 やれやれと両手を上げて首を振る。
「しかし、お前は安過ぎるだろ」
 くすり、と控え目に嘲笑する。
「もしかして、全部覗いていたのですか?」
 ランの顔が、引き攣っていく。
「ああ、『君はトラメ石のような人だ』『え、私が』からずっと」
「は〜ぁ……」
 目が回る。これほど羞恥が他にあるだろうか。乙女の大事な何かを失った、という声が異次元から聞こえてくる。
「まあ、他人の恋路を邪魔するつもりはないが、一つだけ言う。あの腰はもう使い物にならんぞ。ひひひ」
 オーギュストは人差し指一本立てて告げると、不健康に笑い上げた。
「相変わらず、横暴ですね」
 もはや言葉も見つからないと、ランは投げやりな態度で呟く。
「俺が横暴? 俺ほど自制心の強い男はいない」
 オーギュストの顔の上に浮かんでいた趣味の悪い嘲笑が、ふっと消えて、本気とも冗談とも取れる微妙な声でささやいた。それから、足元の酒樽を蹴ると、魔力のこもった拳をぐっと顔の前に翳す。
 そう本気になれば、この国など連日連夜炎で包み、灰燼に帰す事も容易いのだ。その事実を前に、オーギュストは、頭の血管が破裂しそうになっていた。
 カリハバール戦役で、どれだけ重要なモノを失ったのか、この国の上層部は、全く気付いていない。生き残った連中の愚劣さを見れば、取り返すのに20、30年とかかることが予想される。
「小さなコップの中で、つまらん権力争いをちまちまと続けている。猿以下だ」
 ガラス窓へ顔を近付けて、雨の空を睨む。と、薄く鬼のような表情が写って、オーギュストは我ながら思わず引いた。
「そう思っているのは、あんただけ!」
 ランは仏頂面で言うと、思いっきり舌を出した。
「紳士だし、常識あるし、良い人じゃないですか」
 本当のジャンがどういう人間なのかは、先程のやり取りで何となく分かった。つもり、目の前の男と同質なのだ。しかし、もはや理屈ではない。一矢、この偏屈男へ報いたい。
「良い人だと? あれはただの無能だ」
 オーギュストは辛辣に言い捨てる。
「だったら、自分で政治やって祖国を救えばいいでしょ」
 負けずにランも、口を尖らせる。
「政治なんて俗な事を俺はしない」
「はあ?」
 その余りに陳腐な返答に、眉を顰める。
「知っているか。昔偉大な男がいた。そいつは理想の世界を本気で実現できると信じていた。どいつもこいつも、そいつの話を聞いているだけで幸せな気分になったものだ。多くの者が、そいつの語る理想に逆上せた」
 オーギュストは薄い笑いを浮かべる。
「でも、そいつの理想は実現する事はなかった。色ボケした親友の裏切りにあって、あっけなく死んだ。そして、理想世界も露と消えた」
「……」
「政治なんてものはそんなものだ」
「……」
「人間は、際限なく貪欲であり、その為に怒り、憎む。そして、その果てに怨み、妬み、そして、裏切るのだ。そんな人間のために、真剣に考えるだけ無駄。必死にやるなんて、馬鹿げている」
「……」
 ランはいつしか俯いていた。意味が分からず、呆然と立ち竦む。
「少し飲みすぎたようだ」
 オーギュストはランを見て、自分が喋り過ぎたことを知る。そして、徐に立ち上がった。
「……私、思うんですけど……」
 恐々とランがささやく。
「さて、もう飽きた。帰るとしよう」
 オーギュストはランに背中を向けて、暗い外を眺め続けた。

 勝手口の庇の下に、アンが箱を持ってくると、ナン・ディアンは商人の男と立ち話をしていた。
「全部あるのか?」
「ええ、勿論」
 アンが商人に箱を渡す。
「では、代金はこちらに」
 商人は、素焼きの壷三つを置く。
「こんなにか?」
 アンが唖然と問う。これを全部数えると思うと気が遠くなる。こんな単純作業は、ランと香子にやらせるべき仕事であろう、と内心ぼやく。
「昨今では、トリム銀貨は枚数ではなく重さで計算します」
 商人は鮮やかな営業スマイルを残して、去って行く。
「そんなバカな」
 アンが呟く横で、ナンは屈むと壷から数枚をすくった。
「ほとんど、銅だな」
 ナンは、手の中で転がし、時に噛んで、そして、断定的に呟いた。
「分かるのか?」
「俺は、生まれながらの貧乏人だぞ。銀とは縁がない」
 偉そうに宣言すると、さっきの商人が教えてくれたと種明かしした。
「アルティガルドは、銀の質を落としたそうだ。だいたい20%ぐらいだそうな」
「そりゃ、物価上昇が激しいだろうね」
 アンは然程興味なく返した。


――アルティガルド
 真冬の高い空に、空砲の白い煙が散る。アルテブルグでは、ノイエ・シェーンブルン王宮内に新しい御殿が完成し、その落成を祝う舞踏会が催されていた。
 周囲を池に囲まれて、黄金に輝く小さな離れが建つ。
 室内を視察して、ジークフリードは、その美しさに不覚にも唸ってしまった。
 天井、壁、柱、全てが眩い黄金で作られ、床には赤い絨毯が敷かれている。窓から陽が差し込むと、全方位が燦々と輝いて、まさに世界の中心に立っているという錯覚に包まれていく。そして、床の鮮やかな赤いが、黄金に濃く染みこんで、徐々に滲んで混ざる。
 これほどの妖艶さが他にあるだろうか?
 そんな優越感が心を占める。
 サリスとの大戦後、ジークフリードは宰相となった。
 世間から、ジークフリードには、『サリスの最精鋭部隊を打ち破り、ディーンの逆侵攻の野心を打ち砕いた救国の英雄』という大賞賛が与えられている。
 敗戦で傷付いた民には英雄が必要だったし、何よりヴィルヘルム1世自身が、このジークフリードこそ英雄だと妄信しようとしていた。
 ヴィルヘルム1世は、才気溢れる王ではあったが、敗戦に挫折し、政治に嫌気がさし始めていた。酒量は日増しに増え、溺れる日も多くなった。そこに眉目秀麗な若き英雄が颯爽と現われ、心を奪われてしまった。
 彼ならば、自分が挫折した理想の政治を完成できるのではないだろうか、アルティガルドの栄光を取り戻してくれるのではないだろうか、と希望の光を一方的に見た。
 ヴィルヘルム1世は、ジークフリードに全幅に信頼を寄せ、政治の一切を任せる。そして、その代わりに、この黄金の御殿を要求した。セリアに建つ黄金の浮遊塔に負けない御殿を欲した。
「これほどの物を、能天気なセリア人では作れまい」
 ヴィルヘルム1世は上機嫌に言う。
「御意」
 完成した黄金の御殿に、ヴィルヘルム1世も満足した。そして、女たちと御殿の中にこもった。
 ジークフリードが外に出ると、すぐに女の喘ぎ声が聞こえ始めた。
――やはり。
 思わず、にやりと笑う。ヴィルヘルム1世も、淫蕩な妄想を抱いたのだろう。それほどの魔性の力が、あの部屋にはあった。
 だが、『しかし』と思う。今の自分には、そんな色欲など消し飛ぶ喜びがある、とほくそ笑む。
 重い扉を開いて、重臣達の待つ会議室に入った。重臣達が一斉に恭しく礼をする。その薄かったり濃かったりする頭を眺めて、心が湧き起こるのを否定できない。
――俺は今こやつらの命を握っている!
 生かすも殺すも自由自在。これほどの快楽が他にあろうか、と心が躍動する。
「初めはなんだったか?」
顔に醜悪な皺が刻まれていく。


【神聖紀1232年12月22日、セリア】
「えー、詩の朗読会の皆さん、一年間、どうもご苦労さん。また、一年間よろしく。とりあえず乾杯」
 オーギュストの挨拶で、冬至の祝賀会が始まった。冬至は、昼が最も短くなり、以後、日増しに長くなることから、暦の起点とされて賑やかに祝う慣わしになっている。
 白いテーブルクロスを敷いた、丸いテーブルを囲んでいる女性たちが、シャンパングラスを掲げた。
「皆さん、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 それぞれにこやかに挨拶し合う。
「お肉、いかがかしら?」
 まず口を開いたのはミカエラである。自信たっぷりの澄ました声で、料理の感想を聞いた。
――来た!
 忽ち、女性達の耳に、架空のゴング音が鳴り響いた。
「わたくしの指導で開発した、ニブルヘルムのブランド牛よ。どうコクがあるでしょ」
 ミカエラが自慢げに言うと、カレンがすぐに答えた。
「まあ、おいしいと思ったら、さすがサイア産ね」
 早速、小さな火花が散った。
「全く見識を疑う。元来、牧畜は、アーカスこそ本場。世界の牛は、ほとんどアーカスの血統だというのに、サイア産だ、ニブルヘルム産などと笑止な」
 透かさず、クリスティーが口を挟んで、優美に笑った。
「無論、その程度の知識は当然あります。ただ民の間では、牛肉の産地がブランドとなって定着しています。育成の技術や、与える水、餌の工夫などを考慮すれば、ニブルヘルム牛というブランドを示す事も大切でしょう」
 ミカエラは流暢に自説を述べる。
「つもり民を騙すと?」
 クリスティーの流麗な眉が、挑発するように小さく動く。
「生産と消費者の絆も大事、と申しているのです」
「これはミカエラ殿とも思えぬ発言。物の真実こそ民が欲するものでしょう」
「大きな誤解があるようですね。わたくしは、常に民の生活の向上を考えています。そのために、安定的な生産と安全を追求しているのです。この場合、尊重するべきは、何が安全で美味しいのか、一目で判断できる事でしょう」
「では、他の地域の牛肉は危険だと?」
「それは飛躍です」
「第一に――」
 これまで静観していた女性達の中で、アフロディースが口を開いた。
「この肉は脂肪が多過ぎる。またアーカスの肉は、固過ぎる。まあ好みの問題だが」
 ちなみに、アフロディースは美食家としても知られている。美容と食に関する論文を幾つか発表している。
「……」
 ミカエラとクリスティーが口を閉ざした。
「そうですね。健康を考えれば、牛肉より魚を多く食すべきでしょう」
 アフロディースに続いたのが、ヴァレリーだった。パルディアは海に囲まれた国で、海の幸に恵まれていた。
「貴方ならそうね」
 現在妊娠中で、全身から幸せのオーラを放っている。そんな彼女に、微笑を贈ることがあっても、攻撃を仕掛けようとする者は誰もいない。誰であろうと、オーギュストの逆鱗に触れるからだ。
 ミカエラは、適当な言葉でお茶を濁す。
 ちなみに、この子が、後のパルディア王ギュスターヴで、バランスと取れた名君となる。
 一瞬、場に沈黙が流れる。それを切り裂いたのが、アポロニアだった。
「でも、何でもかんでも赤ワインで煮込むと言うのはどうでしょう。クリームとかチーズを使ってみては?」
 北辺では酪農が盛んで、料理に多用されている。
瞬間、クリスティーが鋭い眼光を燃やした。
「あら、新しい方ね。顔に見覚えがあるけど、さて、お名前は、えーと、何でしたっけ?」
「アポロニアですわ、クリス"殿"」
「あー、そうでしたわね。ごめんなさい。ここは、高貴な使命と責任を背負った女性が集う場所と勘違いしていたから。まさか貴方のような方まで許されているとは、思いもしなかったわ」
 交差する殺気が、まさに太陽のように美しい輝きを生み出す。
「それは失礼致しました」
 アポロニアはゆっくりとお腹を押さえて立ち上がる。
「アポロンという名も頂いております」
「そう。それはおめでとう」
 口元だけで器用に笑ってみせる。そして、さっと唇を拭うと、クリスティーも立ち上がった。
「何か、祝いの品を贈りましょう」
「心配り、感謝いたします」
 二人は瞬きも忘れて、じっと睨み合う。
「上帝府に、もぐりこんだと思ったら、さすがに手早い。貴方とは、長い付き合いになりそうね」
「ええ、私もそう思います」
 ふっと笑いを急に浮かべて、クリスティーは歩き出した。それをしっかりと見送ってから、アポロニアも逆方向へと歩き出す。
「一番、ウェーデリアから来ました。趣味は、ドSをドMに扱う事、渾名はユリちん(諸般の事情により、変更)のパパです」
 舞台衣装に着替えを終えたオーギュストが、槍と杯をもって特設ステージに上がった。
「酒は飲め――え?」
 しかし、会場は海の底のように静まり、誰一人としていなかった。
「さ、寒い……海の底の真珠になりたい……」


 ――テムジン。
 その頃、裏弥生通りの名店『餃子のテムジン』の一室では、親衛隊幹部の宴会が行われていた。スペシャルゲストとして、ヤンと小次郎も参加する予定になっていたが、まだ到着していない。
 やや小型の焼き餃子が、味気ない白くて丸い皿の上に山盛りにされて、年季の入ったテーブルの上に置かれている。一切に、若い隊員たちは争って食べ始める。
「あら? 食べないんですか?」
 香子が箸を止めると、隣に坐るランに訝しげに問いかける。
「まあねえ……」
 ランは箸を置いて、ため息交じりに返事した。
「どうしたんですか? 風邪なんてありえないし……」
 箸の先を咥えたまま、香子は首を捻る。
「政治ってナンだろうね……」
 その時、ぼそりとランが呟く。
 その意外な音色に、隊員たちはしばし呆然となった。ランのイメージと言葉が、直ちに直結しないのだ。しばらくしてから、視線が隊長であるナンに集まる。ナンはビールを飲むふりをして、顔をジョッキで隠して一切動かない。
「あはははは」
 沈黙を破ったのは、手の甲を口に添えた、アンの高笑いだった。
「何、似合わないこと言ってるのよ。剣術馬鹿は、馬鹿らしく、剣の事だけ考えていればいいのよ」
 若干の悪意が感じれる。
「じゃ、アンタは分かんの?」
「ええ、勿論」
「言ってみなさいよ」
「上帝陛下がお考えになることよ。私達はその決定に従い、行動すればいいの。ねえ、ダン」
「ああ、アンの言うとおりだ」
 巨漢のダン・ディートリッシュが、餃子を咥えたまま力強く頷く。
「それでいいのかなぁ……」
 ランは頬杖をついた。あの日以来、政治を嫌がっていたオーギュストの言葉が頭から離れない。しかし、何故か、それを誰かに言う気にはなれなかった。もう長い付き合いになるが、初めて二人だけの秘密を共有したような気がした。
「良いに決まっているわ」
 アンが顔を真赤にして、
「じゃ誰が国の方針を決断するのよ。この子やアンタ?」
 と、香子やランを指差す。これに香子は、胸の前で手を激しく振って、「あ、あたし外国人だから」と拒絶の意思を示す。一方のランも、俯いて考え込んだ。
――師匠が政治をしていないと言うことは、あの詩の朗読会が最高意思決定機関と言う事になるのかな?
 オーギュストは、とても政治的な能力を嘗て、女性を選んでいるとは思えない。明らかに外見で選んでいる。証拠に全員が美人で、水準以下は一人もいない。だとするならば、愛される、それだけが為政者の条件ということなのだろうか?
――この子はそれを知って、師匠に近づいているのだろうか?
 ふと香子を見遣る。こんな子供に、正しい政治が分かる筈がない。私も分からないのだから……と思う。
――コイツは、それを知ったら、どういう行動に出るだろうか?
 今度はアンを見遣った。絶対に偏った政治を行なうに違いない。粛清を繰り返す恐怖政治で、民衆から魔女と嫌われる、そんな姿がよく似合っている……と思う。
「いい――」
 ランの複雑な視線に気付かず、アンは雄弁に語っている。
「たくさんの人々が意思決定に参加すれば、責任が曖昧になって、好き勝手に自己の利益を追求し始めるわ。そして、本来優先すべき国益が忘れ去られてしまうのよ。その結果が、旧サリス帝国の末路でしょ」
「じゃ、どんな人が政治を担うんです?」
 これは香子の問い掛けである。
「古の本には、奢侈品を身につけず、みだらなことをせず、無闇に民を使役しない、とあるわ。つまり、自分の感情や欲望を抑えて、常に合理的判断を下す人というわけね」
「そうだ!」
 ナンが突然大きな声を出す。
「それが上帝陛下だ」
「そう」
 ナンとアンがハイタッチする。ランは「いや違うだろ」と思うが、それを口にする前に、引き戸が開いた。
「お、盛り上がっているね」
「ちわー」
 小次郎とヤンが到着した。
「そう言えば、聞いたか? フリオ様のこと」
 登場するなり早々、小次郎が嬉々とした顔で、声を忍ばせる。これに、ヤンは「止めましょう」と諌めたが、もうナンたちは耳を大きくして待っている。
「フリオ様が、『どうもメルローズ様は俺に惚れているようだ』と言ったらしいぜ、宮廷のサロンで」
「おお」
 一同は、餌をねだる猫のように口を三角にした。
「飽きさせない人だ」
「それでこそ、私のフリオ様よ」
 ナンは感心し、アンがテーブルを太鼓の代わりに連打し、身震いするほどに喜んだ。もう誰も政治の話に興味を持っていない。ラン意外は……。
「……」
――では、今はアンの言う衆遇政治なのだろうか……? そうとすれば、またアンの言うとおり、旧サリス帝国のように、この帝国も崩壊するのだろうか?
 胸を奇妙な思いが渦巻いて、もやもやとした霧が濃くなっていく。何を考えようとしても、輪郭を作り出すことさえできない。
――ヤン君は人格、能力ともに秀でているけど、政治の中枢に到達する頃は、初老だろうか……。
 一瞬ヤンと視線が合いそうになり、油で汚れた壁へと慌てて移す。そして、シミをぼんやりと眺めて考え続けた。
――詩の朗読会……大戦と呼ばれるのだろうか……・


【神聖紀1233年1月、セリア】
 新年最初の夜伽にシモーヌが召し出された。後宮五舎の一つ『蓮華舎』への引越しや自主的に喪に服した事もあって、年末までオーギュストに逢っていなかった。
 オーギュストの前に立ったシモーヌは、固くガウンの胸元を絞った。目の周りは赤くはれて、瞳が僅かに潤んでいる。
「やっぱりダメ……」
 シモーヌは苦しげに顔を振った。そして、力なくベッドの淵に腰を降ろして、俯いた。
「君に罪はない。罰は全て俺が背負う」
 オーギュストは、徐に跪くと、そっと膝の上に手を置いた。
「……私が」
 太腿の上で固く拳を握った。
「私が、喜んでやったとは思わないで……」
 大きな瞳が、無表情にじっとオーギュスト見詰める。
「でも、最終的に私が決断した事……分かる?」
「ああ、君はここで生きていく決心をした」
「そう。私はここで生きていく」
 シモーヌは静かに両腕を上げる。
「君の想いに必ず報いよう」
 オーギュストはゆっくりとシモーヌを倒し、体を重なっていく。金色の巻いた髪が白いシーツの上に広がっていた。
「俺が憎いか?」
「……」
 シモーヌは何も答えずに、ただ見詰める。
「俺を叩け」
 それに、シモーヌは小さな笑い、唇から八重歯を覗かせた。
「さあ」
 促されると、冗談のように頷いて、柔らかくオーギュストの肩を叩く。左右一発ずつ、笑いが大きくなる。さらに調子に乗って、もう一度叩く。その瞬間、不思議な力が奥歯に加わった。強く噛み締めると、腕に凄い力が入っていく。
 拳を握って、振りかぶり、オーギュストの顔を殴る。すでにシモーヌの顔は真赤になっていた。
 少しずつオーギュストの顔が迫る。もう一度殴るが、全く怯まない。
「ああー!」
 シモーヌは叫んだ。もう顔は少女のような泣き顔となっている。
 オーギュストは暴れるシモーヌの手首を強引に掴むと、顔の両脇に押し込む。そして、指を絡み合わせて、強引に唇を重ねる。
 もうシモーヌは拒んではいない。一度接触を許してしまえば、忽ち身体が火照り出す。久々の男の肌のぬくもりに、心の奥で静かに眠っていた肉欲が目覚めていく。
「うう、ん」
 シモーヌは、積極的に舌を絡ませて、しがみつくように腕と脚を巻き付かせていく。
 巨槍が深く突き刺さる。シモーヌは白い喉を反らして、甘い嬌声を上げた。
「ああン」
 オーギュストが、白い胸へ口を運ぶ。尖った乳首が、舌腹にひっかかる。
「気持ちイイ、気持ちいい、気持ちイイッ!!」
 大声を出して大きく揺れた心は、容易に逆へ振れていく。官能の本能の赴くまま、喜悦の言葉を躊躇いなく吐き散らす。
 巨槍が、深く侵入を果たす。
 ぞぞっと肢体に、蟲が這うような感覚が広がっていく。ちりちりと指先が焼けるようで、心が嵐のように激しく乱れていく。思わず、ぞわぞわと震える唇から、涎が一筋落としていた。
 ゆっくりと引き出された巨槍は、ねっとりした蜜に塗れていた。
「いやぁ……」
 胎内から失われている異物の感触は、狂わんばかりの喪失感となる。すぐにまた合体したい。この寂寥とした世界で、二人は確かに繋がっている。
 熟れた果実を思わせる秘裂を、穂先が浅く上下する。
「ああっ……ん」
 腰がひとりでに揺れる。快楽に飢えた獣のようにあさましく蠢く。
 かき混ぜられた蜜は、白い泡となって、卑猥な秘唇を縁取り、弾かれた水玉は、繊毛に絡まって数珠のように輝く。
「んあ……あああん」
 見境もなく淫らに喘ぐ。そして、くせのある金色の髪を振り乱して、色情に狂った貌を切なげに左右に振る。
「もっと、もっと……」
 もはや平時の面影なく、うわ言のように強請る。
「いれてぇ……」
 思わず口走った。途端に、何かが弾けた。
「オマンコが寂しいの、お、おチンチンが欲しかったのッ! ずっとっ、ずっと入れていて欲しいのッ、……お願い…我慢できないのッ!!」
 シモーヌは綺麗な肢体を痙攣させて催促する。
 オーギュストは冷めた瞳で、身悶えるシモーヌを見下ろす。
――トンマーゾよ、俺からの手向けだ。
 そして、腰を乱暴に叩きつけて、一気に根元まで埋め込む。
「ふっ、ふかいーーいいっ!!」
 シモーヌは身も世もなく絶叫する。
「あっ、当たってるぅ……奥に当たってるのぉ」
 まるで内臓を抉られているような感触である。今にも腹を突き破られるのではないか、という恐怖と紙一重の快楽に陶酔する。
――ああ、やっぱりこれから離れられない……。
 懐かしい淫靡な炎に、身も心も焼き尽くされていく。
「あッ! ん……ああッ!!」
 すぐに切羽詰まった声となった。柔肉を裂けんばかりに蹂躙されて、言い知れぬ安堵感が充実感に満たされていく。
「あぃッ、す…ごぃッ…いーーッ!」
 強く瞳を閉じて、全身に流れる快楽の波を無心で貪る。
「……ギュス様ので…いっぱいなの……気持ちイイの……頼もしいの……うれしいの……感じちゃうのッ!」
 全身が汗で濡らる。髪が額に張り付き、赤く火照った貌が淫靡に輝く。
「やっ……あッ、あッ、あッ、ああッ、もうっ、もう、いっちゃうぅ、いっちゃうッ!」
 奇妙な声と共に、恍惚として貌を曝け出す。
「イクッ…いっちゃうううんっ!!」
 あてどもなく快楽の迷宮に溺れていく。
 夜が白々と明けていく。
 シモーヌの薄い恥毛の上で眠るオーギュストの顔に白い光が差す。


 休日の昼前、オーギュストは、城内の小劇場にいた。
――こ、これは……!
 ステージ上の人形劇を観て、オーギュストの顔が引き攣り始める。マルガレータ、シモーヌ、オードリー、アメリアの視線が痛すぎる。これほどの駄作を見たのは初めてだ、とどれも強く抗議している。
「どういうつもり?」
 ついにマルガレータが口火を切った。低く轟く声が、オーギュストの腹の底を揺すぶる。
「俺のせいじゃない。マックスだ。アイツが推薦した」
「そうじゃない」
 マルガレータは鋭くオーギュストを睨む。
「貴方は世界の破壊者でしょう。傍若無人の塊なのよ」
「……そこまでは言われていないぞ」
 さすがにオーギュストも心外であり、苦笑しながら抗議する。しかし、この何気ない行動こそ、愚を骨頂と言えよう。女性に対して、理屈で反論するのは、火に油を注ぐようなものであり、現に、マルガレータの瞳には、狂気にも似た閃光が灯っている。
「昔、面白くない道化師の足元に火を放って踊らせたでしょ!」
 そんな記憶はない。悪意のある言いがかりに、オーギュストは気分を害した。冷めた表情でソファーに凭れる。
「グレタ」
 見かねたオードリーが、そっと呼びかける。
「声が大きいわ。人形が固まっているわよ」
 ステージを見ると、オードリーの言葉通りに、人形たちは石のように動かない。無駄に音楽だけが流れている。その場の全員が、世間に悪い噂が広まることを心配して、顔を蒼白に染めている。
「もういい。帰る」
 場の空気に居た堪れなくなり、マルガレータは、憮然と立ち上がる。そして、背後の扉へ歩き出した。
 オーギュストは、空いた席を一瞥すると、しばらく苦い表情のまま坐り続ける。
「何だ、あれは?」
「アルテブルグから使節が来なかったことが寂しいのでしょう」
 吐き捨てるように言ったオーギュストの言葉に、アメリアが即答える。
「なるほど」
 小さく唸った。

 本来ならば、新年の式典に、友好の証として、アルティガルド宰相ジークフリードが出席する予定になっていた。だが、直前になってキャンセルの報せが入った。
 ジークフリードは分かっていた。式典では、当然のようにオーギュストは上から声をかけてくる。慣例的に、臣下の礼、領地の割譲、毎年金銀の上納などを、要求してくることは容易に予測できた。
 しかし、この場合、世界の常識は、アルティガルド人にとって非常識である。ジークフリードは、追撃してくるオーギュストの精鋭を華々しく撃破したことになっているのだ。
 ジークフリードは、政治家として断腸の思いで、友好の道を蹴った。

「はあ、よし、慰めてくるか」
 オーギュストは「面倒だ」と呟きながら重い腰を上げた。
 小劇場を出て、細い階段を上る。すぐに尖ったハイヒールを攻撃的に鳴り響かせるマルガレータの後姿が見てきた。
 クリーム色のプルオーバーは、襟刳りにたっぷりと花のようなフリルがあり、袖口と裾には透かし編みが施されて、また、緑色のティアードスカートは、セミタイトなシルエットを描いて、上品な優雅さを放っている。
 さすが王女の着こなしと思えるが、とても中身と合致しているとは言えない。
 オーギュストは、後ろからマルガレータの腕を掴む。
「嫌よ」
 マルガレータは激しく腕を振って、振り解いた。オーギュストは一瞬イラついたように顔を歪めたが、感情を抑えて、懸命に宥めようとする。
「詰まんないもの見せて悪かった」
「どうして人形劇なのよ」
「マックスが面白い劇団を見つけたと言うから、まあ……人形劇とは知らなかったけど」
「あの酔っ払い……」
 マルガレータは鏡を叩いて、早口に呟く。
「……おい、口が過ぎるぞ」
 確かにマックスの酒量が増えているのは気になるところだった。マックスは以前の自分を追いかけるように、酒を飲んでいた。酔えば、無難に陽気な自分を取り戻した。しかし、次第に、マックスが思い描く気のいい男と迷惑な酔っ払いとの間に、微妙な誤差が生じているように、オーギュストは感じていた。
「みんなして、私ばかりを苛める」
「そんなことないよ」
 猫撫で声で宥める。しかし、マルガレータの感情は治まらない。
「嘘、シモーヌばかり特別待遇して」
「彼女はいろいろ頑張ってくれたし」
「私は頑張っていないというわけ?」
「そんな事は言って……いないよ」
 刹那、語気が昂ぶりかけたが、強引に語尾を押さえ込んだ。
「私はたくさん手紙を書いたんだから」
「分かっているよ」
 頭を撫でようとしたが、それをマルガレータは烈しく払い除ける。
「勝手に来なかったんだから……」
「分かってる、分かってる。グレタも頑張ってくれた。ありがとう」
「も、じゃない。私は一番じゃないと嫌なの」
 再びヒールの音が、白い階段室にこだまする。オーギュストには、何か不吉なものを呼ぶ鐘の音のように聞こえていた。
 階段は大きく弧を描いて曲がる。縦長のガラス窓が等間隔に並んでいて、駆けるマルガレータの姿が連続的に映り込んでいた。どれか一つは異世界に通じている、と言われてもても可笑しく思わないだろう。
 オーギュストは頭を掻きながら、階段を大股で上る。と、一つずつ離れて、ハイヒールが落ちていた。
 拾いながらもう少し上れと、今度は、スカートが、プルオーバーが、下着が、脱ぎ捨てられていた。
 暗い階段を上り切ると、大きな窓がある。真冬の低い太陽が、調度窓枠の中に収まり、強烈な光をオーギュストへ向かって放っていた。
 逆光の中に、スレンダーなシルエットが立っている。その輪郭を光が縁取り、淡い産毛がしっかりと浮かび上がっている。
――美しい……。
 細い足首、棒のように真直ぐな脚、両手の親指と人差し指で作った輪の中に収まりそうな腰、小ぶりだが形のよい乳房、木苺を思わせる乳首、浮き出た鎖骨、長い首に拳ほどの小顔、一切無駄のない肢体に、オーギュストは心を奪われた。
 一瞬、漆喰の壁が波打ったように感じられた。それは一秒にも足りないほど刹那で、元に戻ったが、しかし、心臓は固い音を鳴らし続けている。頭に熱い血潮が吹き上がり、強烈な目眩を感じた。頭の中心が空洞になったように、考えていたこと、考えなければならないことがすっきりと消えてしまった。ただその表層を、幼稚なピエロが、口笛を卑猥に吹きまくって走っている。
 一歩前に出ると、脚を伝わるべき衝撃が全く感じられない。まるで雲の上でも歩いているようにふわふわとした心持ちだった。
 マルガレータの口が動く。
「私を見なさいよ」
「見ているよ。とても綺麗だ」
「そうじゃない」
 マルガレータは髪をかき乱す。
「私は一番じゃなきゃ、嫌!」
「ああ、分かった」
「嘘!」
「嘘じゃない。とても綺麗だ」
 オーギュストは十段ほどを軽々と飛び越えると、マルガレータを抱き締める。余りの華奢さに、力を入れれば折れてしまいそうだった。
「嫌、嫌、嫌、全部嫌!」
 口付けしようとすると、マルガレータが凄い剣幕で叫ぶ。しかし、顔の角度を適切に合わせて、オーギュストの唇を受け入れた。
「うう……ン」
 唇と唇が淡く重なる。マルガレータの喉がかすかな音を鳴らした。
 リップを塗った唇は、プリプリとした弾力があり、その感触を楽しむように、オーギュストは啄ばむようなキスを繰り返す。
「あっ、くうん……」
 身動ぎ一つせず、ぐっと腕を胸の前で固く搾っていたが、真赤に上気した貌で、鼻を甘く鳴らし始めた。
――ああ、蕩けちゃう……。
 唇を舌でなぞられると、全身が熱く火照って、身体中から力が失われていく。
 オーギュストは、唇を割って、ゆっくりと舌を挿し込む。
「んんっ」
――ああ、変な気分に……。
 オーギュストの舌が、口腔を縦横無尽に犯す。歯茎の裏を突き、舌を絡め、頬の裏を摩る。二種類の唾液が、マルガレータの口の中で混じり合い、ついに口の端から滲み出る。
 くちゃ……、くちゅ……、
 舌の捻り合う淫らな音が、昂ぶっていた感情を水飴のように溶かしていく。
――……美味しい。
 唾液を喉の奥へ飲み込むと、ジーンと身体の芯が疼いた。
 オーギュストが余韻を残しながら舌を引っこ抜く。唇は離れたが、二人を結ぶ半透明のアーチが築かれていた。
「はあっ、はあっ」
 マルガレータは息を荒げて、上目遣いにオーギュストを見遣る。そこに不快な棘はなく、キラキラとした憧憬の光を漂わせている。
「どうだ、俺の気持ちは伝わったか?」
 オーギュストは、濡れた唇をぬぐいながら尋ねる。
「ばか」
 マルガレータは恥じらいのある声で呟くと、オーギュストの胸に貌を寄せた。
「お願いだから、もう1回して……」
 そして、瞼を閉じると、可愛らしい声で告げた。
「そうしたら、お代えしに、気持ち良くして上げる


――南宮、サロン
 マルティナはサロンの窓際のテーブルに座り、黄金の浮遊塔をぼんやりと眺めていた。その真新しい黄金の輝きは、恰も地上にもう一つの太陽を創り出したように、あらゆる存在感を凌駕していた。
 非現実的な風景ではあったが、今マルティナ自身が、その輝きを支える礎のひとりとなっている。それを自覚するたびに、心地良い高揚感に包まれていく。
「待たせた」
 向かいの席に、兄クラウスが坐る。その気配で、名残惜しそうに視線を正面へ戻した。
 クラウスは、マルティナとともにマルガレータの護衛としてサリスに赴いた。そして、オーギュストより男爵位と将軍位を与えられている。
「アルテブルグの噂は本当だ」
「そうですか……」
 マルティナの顔が曇った。
 今、アルテブルグでは『ジークフリードの大獄』が始まっていた。
 位人臣を極めたジークフリードは、何よりも蹴落とされることを恐れた。その最大の芽は真実の暴露である。真実とは、彼が何ら功績を立てていないことである。早急に、これを永久に封印する必要があった。
 最初の被害者は、副長のシュヴァルツ少佐だった。彼は些細な罪で極刑となる。次に、直接の上司である国境守備隊司令官が収賄の容疑で投獄。さらに、その牙は、かつての部下達へ向けられ、次々と些細な容疑で投獄されていく。
 ジークフリードの粛清には、あるいは、実績への嫉妬があったのかもしれない。彼が過酷な処置を施した人物たちの多くは、正当な努力の末に高学歴を手に入れ、エリート官僚、エリート軍人として、功績を積み重ねてきた者たちだった。
 一方、彼は生来優れた才能をもっていたが、道を踏み外し、その才能を伸ばす努力を怠った。そして、実績の捏造で、ここまでのし上がったのだ。自責の念と嫉妬が、彼を狂気に走らせたとも言えよう。


――黄金の浮遊塔。
 セリアの街を一望して、オーギュストは階段の最上段に腰掛けていた。
「舐めて上げる。気持ちいいんでしょ?」
 さも上級者という顔をして、マルガレータは、腰を屈めて、オーギュストの脚の間に顔を埋めていく。
「あたしが一番気持ちよくしてあげられるんだから」
 口元は照れて笑っているが、瞳はキラキラと好奇心に輝いている。
 最高級品の金糸を思わせる髪を後ろへ振り払い、薄い唇を割って、舌先を伸ばす。不思議と昂奮が湧き上がってくる。
「ううん」
 舌先に異物を感じて、軽い吐息をもらした。生温い痺れが背筋を揺らしていく。
「むふん、うふん……」
 尿道口に宛がうと、舌先を震わせて刺激した。自然と鼻が甘く鳴る。
 口唇奉仕は、ずっとマルティナとルイーゼ
の行為を見て、学習していた。しかし、見ると遣るは違うもので、上手く口を動かせず、どこかぎこちない。
「む、うんっ、むん、むふん……」
 舌を大きく動かして、亀頭全体を丸く舐め、くびれ部分を丹念に這わせた。こうするとオーギュストは悦ぶ。それは分かっている。
「うん……ふふふ」
 咥えたまま、マルガレータは少女のように笑う。これほどオーギュストの反応を知ることが楽しいとは思いもしなかった。
 巨槍を指で摘んで、裏筋へ笛を吹くように吸い付く。ルイーゼの得意技である。軽やかに上下に動かした後は、温かな唾液を舌の腹に乗せて、裏筋をぺろぺろと舐め上げた。
「うぐぅ……ううん」
 それから、大きく口を開いて、頂点からすっぽりと口に含む。
 ちゅっ、ちゅばっ、ぢゅぱっ。
 萎めた唇を上下させて、一際大きく卑猥な音を鳴らす。
「んちゅ、んっ、んっぷ……」
 そして、頬を引っ込めて、強く吸い上げる。同時に、淫蕩な媚びの色が滲んだ瞳で、上目遣いにオーギュストの顔を見上げる。マルティナがいつもこのタイミングでしていた。
「んんっ……」
 口の中で、亀頭がさらに硬くそして大きく膨らむ。マルガレータの舌は弾かれて、喉の奥を怏々と雄々しく衝かれる。
 それは紛れもない男の満足感の証である。そう想うと、暖かな愉悦が心に灯る。もっともっと快感を与えたい、その反応を感じ取りたい、と口唇奉仕にさらに耽ってしまう。
「んっん……」
 激しく顔を前後に振り、根元から先端までをしごく。口内一杯の巨槍がぴくぴくと蠢くと、顔全体に恍惚とした法悦の輝きを浮かべた。
「ああん、うっ、ふんぅ……」
 どっと強力な淫臭が口一杯に広がる。それがマルガレータの脳を灼いた。オーギュストを悦びが舌先からびりびりと伝わってくる。まさかこれほどフェラチオにはまってしまうとは……。驚きであり、情けなくもあり、そして、何より至福であった。


【2月、ブルシュ長城】
「東の山城より発して、西は海に至ります」
 オーギュストは、鎮西将軍ニードス公アレックス・フェリペ・デ・オルテガによって建設されている長城工事を視察するために、ブルサ州を訪れていた。
「投石には、永久氷壁の中から切り出しました物を使います。ドラゴンといえども一撃でしょう」
「うむ」
 アレックスの説明を聞いて、オーギュストは満足そうに頷いた。
 長城は、草原から攻撃に備えて、防御線となる直線状の堀と土塁、さらに、投石機を載せた塔で構成されている。土塁は高さ10メートル、幅1メートル、また、堀は、幅60メートル、深さ4メートルあった。
「いざとなれば、堀に入った敵兵を、上流より水を流し込んで一掃します。が、まだ十分な水量を得るには至っていません……」
「仕方あるまい。水は貴重だ」
 オーギュストは淡々と答える。そして、地平線の彼方まで伸びる草原を見遣った。羊の群れが黒い点となり、僅かに東へ動いている。どこかエリース湖と似ている、と思い、小さく微笑む。
 無事、視察を終えて、一団は長城の後方に付随する城館へ向かった。ほぼ正方形の内郭を外郭が囲む輪郭式平城である。死角を消す工夫などは特に施されておらず、防御には向いていない。しかし、決戦の際には、セリアから遠征してきた数万の将兵を収納する機能を持っていた。
 すぐに接待の宴会が始まる。
 オーギュストの左右に、アレックスが用意した美女が侍り、艶やかに身体を寄せて、決してグラスを空にすることなく、地元の銘酒を注ぎ続ける。そして、前に、ドネール湾名物『鯨カレー』が運ばれてきた。
「おお。鯨か!」
 オーギュストは、舌なめずりして一口頬張る。その次の瞬間、鯨の肉が柔らかいやら、スパイスが効いていないやら、果物の甘味を加えろ、などと火を吹くように次々にダメだしを繰り返した。仕舞いに、頭から湯気を出す寸前のシェフが、厨房から飛び出てきて、「アンタにカレーの何が分かる」とオーギュストの頭に、カレー粉を降りかける事件まで起きてしまう。
 シェフはブルサで評判の料理人で、肉感的な美人でもあったが、気の強さも伝説級だった。
 美しい黒髪を後ろで束ね、少し広めの額の下で、目尻の切れ上がった眼が、怒りで殺気立っている。
 包丁をテーブルに突き刺して、「生の草でも食っていろ」とまくし立てる。
 オーギュストはシェフを見詰めて、思わず口笛を吹いていた。

 未明、カーテンの隙間から、雷の鮮やかな光が寝室に差し込む。壁に絡み合う二つの肉体の影が浮かび上がった。
 オーギュストは女の肉欲的な身体を、向かい合わせに膝の上に乗せていた。ベッドのスプリングが悲鳴を上げるほど激しく突き上げている。
 女の毬のような乳ぶさが、上下に揺れて、谷間には大量の汗がたまっている。オーギュストの膝に落ちるたびに、たぷたぷとつきたての餅のように弾む。
 女は時に食材を求めて自ら海や山に向かうそうで、肢体は小麦色によく焼けていたが、胸や腹は真っ白で瑞々しかった。
 顔も首筋も腹も腿も、汗でびっしょりと濡れて、吸われた赤い跡が無数に残っている。何度も射精されて、濡れては乾き、濡れては乾きを何度も繰り返したのだろう、髪はぱりぱりに固まって、くっ付いて幾本かの束になっている。
 狭い室内は、交じり合った二人の体臭でむせ返るで、汗まみれ肌と肌が擦れる音、蜜液をかき回す音、肉と肉がぶつかり合う音が、いっぱいに響いている。
「ぐうぅっっ」
 揺さぶられると、抉られるように突き刺さってくる。また未踏地の最深部を更新された。
「あぐう!」
 いたぶるように膣奥を叩かれて、女は獣のように喘いだ。
「いやらしい女だ」
「そんなぁ、久しぶりだったから……」
 言葉でなじられて、女は貌を歪める。
「仕事が忙しくて、男はご無沙汰だったか?」
「ええ……」
 切羽詰った表情で、何度も首を縦に振る。
「それであの程度か?」
「……」
 女は、何も反論せず、唇を噤む。
「俺のと、どっちか美味しい?」
「……」
 堅く閉ざされた唇が、僅かに震えている。
「答えろ!」
 強要する声と同時に下から突き上げる。
「あっ、ひぃ!」
 女は唇を割って、悲鳴をもらした。
「あなたです。……陛下です」
 喉の奥から搾り出すように呟くと、目から涙が溢れた。
「そうか。ならばもう一口食べてみるか?」
「ええ?」
 快楽と屈辱の海に溺れていた女の貌が、急に真顔になる。
「もう一度、頂けるのですか?」
「舌を出せ」
「はい」
 女は嬉々として舌を差し出した。
 オーギュストは片頬で笑う。そして、視線を壁際に立つマルティナへ向ける。
マルティナはさっと密閉容器を開けて、スプーンにスープをすくって、一滴、女の舌へ垂らした。
「ああ、なんて神秘的な味なの〜」
 忽ち、女は恍惚とした顔をした。だが、それ以上与えられず、すがるような瞳をオーギュストへ向ける。
 オーギュストはゆっくりと一口口に含むと、口を重ねていく。
「んっ、ンン」
 舌とともに流れ込む極上のスープ。それは女の山よりも高いプライや絶望的な屈辱感も、あっさりと蕩けされて、ただ至高の幸福感だけをその身心に充実されていく。
「ずゅ、じゅじゅ……」
 まるで蜘蛛が獲物を捕らえるように、腕を首に回し、脚を腰に絡めて、最後の一滴まで搾り取る。その間も、下半身は、がっぷりと交合して、粘膜と粘膜が情熱的にせめぎ合っていた。
「あぅうううん」
 自分の仕事にプライドをもった女性の風貌は、もはやない。目元は熱にのぼせたように、淫らな朱に火照り、勝気だった瞳は、肉欲に溺れて虚ろに揺らいでいる。口元は閉じる事を忘れたかのように開きっぱなしで、絶えず涎を垂らしている。
 その時、ドアが叩かれた。
「失礼します」
 ルイーゼが入ってくる。
「お楽しみのところ申し訳ございません」
「構わん」
 オーギュストは女を降ろすと、膝で立ち、顔を入り口に立つルイーゼへ向けた。
 女は貌をシーツに埋めて、豊満な尻を掲げた。
「んんんっ」
 背後から貫かれると、悶絶した声をもらす。
「それで?」
 尻肉を鷲掴みにして荒々しく挿入を果たすと平然と問う。
「はっ、パルディアより緊急の連絡があり――」
 聞きながら、オーギュストは激しく腰を叩きつける。
「カリハバール軍が上陸、テリムに迫っているとのことです」
「ほお、バイパール半島から攻めてくるか」
 感心したように呟く。
「我々は裏をかかれました……」
 ルイーゼが深刻な声を発すると、オーギュストはたまらず、苦笑いする。
「あいつら、本気で俺に勝つ気らしい。え? シェフよ、どう思う?」
 尻を軽く叩く。
「はあっぁん」
 その時、女はシーツを握り締めて、腕を突っ張り、背筋を反らさせると、雷鳴に合わせて吼えた。








続く


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